二下り目

とんとんと正月おとりはじめハ  やれおもしろい

 

 という理は、とんとんとは穏やかにに栄える心なり。正月とは正しき事をくるめたまう心なり。踊とうは重りという心なり。

面白いという心はどういう事なら、面白いというは二柱の親神様の事なり。

白いとは正しき守護を下さる御心を面白いというなり。

 

二ツ  ふしぎなふしんかゝれバ   やれにぎわしや

 

という理は、不思議というは二柱の守護の正しき気を不思議というなり。又、ふしんというは世界中の人間の心を人間は子なら、その神の心と変わらん様に洗て拭き取ると仰っしやる事をふしんというなり。そのふしんを仕上げる所、神が十分入り込んで自由自在の働きをして世界を助けして、我身も結構の御守護を受け暮らそうとのこの二つの事をにぎわしやというなり。

 

 三ツ  みにつく

 

 という理は、人間には水と火と風とは三ツ身につく、その外に身に就く物は何なれば、何程物が沢山にあろうとも、日々に食う事と着るだけでより身につかん。この心を定めて強慾悪気を無き様にして

正しき日々暮らす心さい定まるものなら、風と火と水と何時も身に就くを三ツみにつくというなり。

 

四ツ  よなおり

 

 という理は、この世というは夜から始めた世界なり、またよは善き事なり、善心を定むればその心を

天地に受け取り、御守護下さる事をよなおりというなり。

 

五ツ  いづれもつきくるなれハ

 

 という理は、この五ツというのは人間は五輪五体で五柱の神様の御造り下された事を、五ツというなり。人間皆正しき心になる事を何れもというなり。

 

六ツ  むほんのねゑをきろふ

 

 という理は、むつというのは六体の御積り下さる心なり。六体なれば何によらず世界は六句の心を尽くすのは元の道なり、本道は往還なり、謀反というのは六体の理を知らず、六句の道に外れる心の働きを皆謀反という。この根を切て往還の心を定めていれば、謀反は根を切れる。又、親様の謀反の根を切るといはれるのは、皆これ人間は神の借り物の身の内は神の自由様なれば死ぬも生けるも神の心次第なれば、煩いもなく不時災難もなく、逆ま事もなし、世界は地震も津波も雷も山崩れも大風もなし、毎年凶作もなし、体も世界も穏やかに暮らす暮らさそとの事を謀反の根を切らうというなり。

 

七ツ  なんじゆをすくいあぐれバ]

 

という理は、難渋とは何だけではなしに病に就いても真実の誠心を尽くす事をいうなり。

 

八ツ  やまいのねゑをきろふ

 

という理は、世界は八方八柱の神の守護なればその八柱の神様が間の抜けぬ様に十分の御守護下さるのを第一定め日々日を送ればやまいというはなし、八ツの埃ないものなり。病いの根は抜けるを病の根を切らうという事なり。

 

九ツ  こゝろをさだめいよなら

 

この理を聞いて、この心を定めて、ここ迄就いて来、心を忘れぬ様に物事は何によらず十の物九ツまで仕上げてもう一つ崩れば理を失う。人間の心を定めには十日の日が九日迄定めても一日くるたら九日の理をう。又三十日の日は二十九日までつつしんでも一日崩れたら二十九日の理を失う。この理を定めて変わらぬ様に定いよならというなり。

 

 十で  ところのおさまりや

 

という理は、十方十柱の神様の心が納まる身の内も納まる。世界も治まる事を所の納まりやという

りなり。一ツ又、正月一ニいき、二ニツににたり、三ニ散財手踊、四にしいくり実はなし、親の息をかけて下されて、養育した時の授けなり又正月一に息とは御息の授けの事なり。この御息の授けは元子種を泥海中は産み御下された時の食物なり。

二ニにたりとは力物の授け。この力物は萬づ食物の理、一ツにつじめて力物と御授け下さる事なり。

三ニ散財手踊とは元無い人間拵へるに就いて悪しきの付いた人間を拵へ様と親神は思いつかれた時の理を下さるなり。

四ツしつかり真実とは、人の煩いも不時災難もどんな難も我身に引き比べて誠を尽くす事をいうなり。

五ツいつものは噺方とは親様の教え通りの理を守り、どんな者でも見分けせぬ様にして真実に思ふて悩む人に懺悔さす心のものをいうなり。

六ツ酷い言葉を出さぬようにとは、人を皆兄弟という心を定めてあく迄人を育て捨る心もなし、捨て言葉もいはず、誠心を離れぬ様の心をいうなり。

七ツ何かの助け合ひとは何助けではない。互々の身の助合いを心に第一と定める事いうななり。

八ツ屋敷の締方とは我家を六まじう修めて親類の納めて世界はどこ迄も敵もない様又、隔てなき様心を尽くす人をいうなり。