一ツ  ひのもとしよやききの  かみのやかたのぢばさだめ

 

という理は、生屋敷というのは地場は申すに及ば人間始めた正しき屋敷。また世界も正しき屋敷

人間も正しき借物。神のやかたというのは地場は神の地場、やかたはの事をいうてある。またそれだけではなしに世界中人間の身体も月日の細物。その身体の地場というのは人間の心なり。心懺悔して月日とも変わらぬ位心の入れ替えて澄しさいすれば、その者に月日が入り込んでどんな守護も下さる事なり。それで心を澄まして銘々に神の自由用を受ける心に入れ替えてて世界助ける心の人は神の地場と同じ事なり。その心の者が増える程神のやかたの広まるのと同じ理合に成る事をいうなり。

 

二ツ  ふうふそろうてひのきしん  これがだいゝちものだねや

 

という理は、ふうふとは夫婦心を合わせて信心するだけの事ではなし。男は男風、女は女風、兄は兄風、弟は弟風、姉は姉風、妹は妹風、親は親風、子は子の風、これは皆心の風なり。心の風はいうのは男は月様の如く何事も心を素直にして穏やかに家内を育てる心、女は日様なり、日々その夫に心を従ごうて誠の勤めをする心を定め。兄は身下を哀れむ心。姉も妹も哀れむ心。親も我が子を哀れむ心

子も親に孝心を尽くす心。家内中とも心合わせて睦じく暮らしてその心で世界中も互々も誠の尽くし合いを定めるのが物種やという事なり。

 

三ツ  みればせかいがだん/\と    もつこになうてひのきしん

 

という理は、世界中が段々と神様の話を聞いて、もつこというのは、この元のこうを感心して何時も心で荷うて忘れぬ様に定め付たら、人にしんどい事はささぬ様にする。しんどい事をささず、我が身がしんどい事をする心に成る。そのしんどいというのは仕事だけでなし、荷を持つだけでなし只何事も誠を尽くして人を助けるのは人の荷を助けるのも同じ事、また我が身が誠を尽くせば人の荷を持つのも同じ事、これを日の寄進という事なり。

 

四ツ  よくわわすれてひのきしん  これがだいゝちこえとなる

 

という理は、欲というのはこの世の苦なりこの世の苦というのは世へ迫る事を苦というなり。世に迫る元というのは皆人の心から迫るという。人はどうでも我が身さい善くばよい様に思う心が皆人の迫りとなる。人もまたその心が有れば我が身の迫りに成る。思案して見よ、我が身にやわらかになれば人もやわらか、人がやわらかなれば世界の心も何事にても大きい。世界が大きければ世に迫らん、世にせまらにや我が身の苦はない。世の苦がなくなれば欲を知らんという事なり。何事も欲に迫まる我が心からどんと思案して我がさい善くばよいと思う種を忘れてしもうたら世界の日の寄進という、これが第一の物種なり。

 

五ツ  いつ/\までもつちもちや  まだあるならばわしもゆこ

 

という理は、この土は人間の身の内の肉を土というなり。この肉を持つには身の内が悩んでは持てまい。身の内の悩みは心のほこり一つに止まる。その肉をいつ/\ 迄も持ちたくば、ほこりを何ぼ懺悔

してもまだ/\有れば何でも懺悔すれば、身の内の肉もいつ/\迄も持たれるものなり。また世界中

もその懺悔して善心を定めていれば世界に離れる事はなし。すればその地その土の暮らしがどこまでも広うでける心を土というて有る事なり。

 

六ツ  むりにとめるやないほどに  こゝろあならたれなりと

 

という理は、この道は無理に勧めもせず、またこの道の心有る者を止めるやない程に。誠の道、天の理助けの道、助けの元、身の悩みでなし、世界中の助け道。高山から谷底迄皆助かる事知らずして高山から谷底も平地も隔てない助け心の物種を止める心でいる者は我が身止まると得心せい、何ぼ高山でも谷底の水でくえるというはこの事や、世界中は皆承知していよ。谷底も細水でも月日自由用切れ目なし。高山でも崩れたら姿は有るまい。この事はどういう事なら月日退くという事なり。

 

七ツ  なにかめづらしつちもちや  これがきしんとなるならば

 

という理は、屋敷は八柱の神の屋敷なれば世界は皆屋敷その理で銘々の家の下を屋敷という。そこに

住む人間は身の内も皆神の屋敷、この屋敷の土というは身の内の肉なり。その肉を減らしても人の為世界の為を尽くす心とまた、銘々の屋敷替える迄物を惜しまず種を蒔く心を尽くすなら天理に適うて屋敷の姿を失うても一夜の間にも天より御与え下さる屋敷は広うて身の内の屋敷も十分陽気で永く居られるという事なり。

 

八ツ  やしきのつちをほりとりて  ところをかへるばかりやで

 

という理は、やしきとは銘々の心得違い、八ツの心得違いのしきをやしきという。この心得違のほこりを速やかに堀取りて懺悔すれば所替えるばかりや、というのは十柱の神が銘々の心の頃合い変わりのりて守護十分下さるばかりやとい事なり。

 

九ツ  このたびまではいちれつに  むねがわからんざんねんな

 

という理は、むねいうのは六体の神様の借物の根を分からん故、身に悩みを受け、患い災難に逢うて暮らしていた。この度、親神様の話を聞いて懺悔をして六体の借物の恩を忘れず、また信心というても拝むばかりや頼むばかりで参るばかりでいかんという事が分かる。参らいでも拝まないでも頼まいでも親の教え通り心を定めて互々の助け合いの心を一つでも十分何事も適うを肥をおかずに作り取りという事なり。

 

十ド  ことしははこえおかず じふぶんものをつくりとり やれたのもしやありがたや

 

という理は、十分の理が分かりて十分の心を澄ませば十分の守護を受けて身の内も世界も無難で難儀なしという事も同じという事なり。