六下り目

一ツ  ひとのこころといふものハ  うたがいぶかいものなるぞ

 

という理は、この疑うはわが身の知らぬ事を思わずして確かな神の教えをほんまにせずして暮す心は疑い深い。何事も人間の始まり世界の始まりの元は知ろまい。その理を諭して十分の助けをさそうと思う月日の心配、人間心で嘘と思うてわが身の身体の損を深く招く心気の毒やという事をいうなり。

 

ツ  ふしぎなたすけをするからに  いかなることもみさだめる

 

という理は、この不思議というは何事も節から開く理なり。節は二柱の神の儀なり。この二柱の神の知らん事なし。人間は皆月日二柱の神の心の細物なり。如何なる事も見へるなり。また人間も助けるにも悩みの所でその人間の心を見定める理を受けるなり。この事を如何なる事も見定めるという事なり。

 

三ツ みなせかいのむねのうち かがみのごとくにうつるなり

 

という理は、みというのは人間は元は美様より産み広めて貰うた者なり。なというのは世界中は国常立命様の物なりこの二ツの理を皆というなり。鏡の如くというのは月日二神の世界なれば見えん

所なし。また人間も助けるにも悩みの理でその人の胸の内が鏡の如くに映るでなというなり。

 

四ツ  ようこそつとめについてきた  これがたすけのもとだてや

 

という理は、勤めというのはつは切る理なり。止めるというのは何事も世界中を切れぬように繋ぐ事を勤めというなり、これを繋ぐ理は誠がのうては繋ぎが出来ぬ。この誠は世界に隔ても無きように近道も欲高慢も無きようにして、また世界中を互々の助け合い。わが身さい善くは良き事と思う心の根を切り。その日/\の堪能してなさけ心を第一として世界中の人を神とあがめる心を第一に定めて暮らす事を繋ぐという理なり。すれば人も助かるわが身も助かる事をいうなり。

 

五ツ  いつもかぐらやてをどりや  すゑではめづらしたすけする

 

という理は、いつというのは五倫五体の体なり。神楽や手踊りというのは無い人間無い世界を拵えた

元の雛形をする事なり。末は珍しい助けというのは今の悩みの助けでなし。末の助けは真実次第で病まず、死なず弱り無き様の道でまた、百姓は肥の授け、またおびや自由早めなりとも、延ばし成りとも子は望み通り男成りとも、女成りとも望み通り。また疱痘せんようの受け合いの守り、甘露台の上で勤めに掛けて人間に心次第で授け様とのこと。またどこへ行けとも小遣い要らず、人に難儀さそう

にも仕様の無きよう風はいつでもそよ/\風で世界の金なけ水も澄まして、咲いた花にも香を付けて暮らそうとの事なり。

 

六ツ  むしやうやたらにねがいでる  うけとるすぢもせんすぢや

 

という理は、むしようというのは只頼みだけでは皆頼む。なれども人間は皆銘々に心が違う、その心を受け取り悪の中にも善が有り、善の中にも悪が有る。穏順しくても埃の深い者も有る。この理を見分け、聞き分けして神にもたれよ。人間はあざない者で天の理を知らぬ故、その理によって利益有る無いの道が有る。どんな善人でも天の理に外れる者は皆悪しきやで。この理はどういうものなら物惜しみの深き者有り、貧しい者も心悪き者有る、怨みねたみ心の深き者も有り、あんじ心の深き者も有り、隔て心の深き者有り。嘘追従の心の者も有り、高慢心の深き者も有り、疑い心の深き者有る、

日々に心の変わる者も有る、眼に映る所に心を映す者有り、また信心するにも神様を真実に願うだけの心の者も有り、また信心する中に真実に話を聞いて懺悔をして心を定める者も有り、その心通りを受け取る事を千筋というなり。

 

七ツ  なんぼしんじんしたとても  こころえちがひはならんぞえ

 

という理は、信心する中に信心の心得が第一なり。道を知らずに信心しては何にもならぬ、この理を第一に心得て願うなら誠の信心というなり。誠の信心というは誠一ツが第一なり。人間の理は世界兄弟を誠として、嘘追従欲高慢隔て心のなきようにして人間は皆互々の心を信というなり。心というのはその誠心を生涯外さぬようにするのが心というこの理を外れてわが身さい善くば善い事と思う心を元として、神に願いを掛けるのは、わが身の食物をしんどして作るのも同じ事なり。この理を心得違いはならんぞえという事なり。

 

八ツ  やつぱりしんじんせにやならん  こころえちがいはでなほしや

 

という理は、八つぱりというのは八柱の神様の理を外す事なり。その信心というの人間心を無きようにして世界兄弟とし、世界はの田地山林も金銀も借り物。人間心で身体の悩みを助けて貰いたいと思う心は皆信心の道に外れる事なり、心得違いの信心は御利益がない故、元の誠心になれば利益が有る故ぜひに迫りて誠心に成る事を心得違いは出直しやという事なり。

 

九ツ  こゝまでしん/\゛してからハ  ひとつのかうをみにゃならぬ

 

という理は、こ迄とは十を九ツ迄積んだる理なり、これはまた信心してからはというのは十を九ツ

迄心を懺悔して定めを就けた事なり。十に一つの理が外れても一ツに帰る理なり、その理の迫りをいうなり。この事は何だけではなし内々も三十日の中にも二十九日まで睦じく暮らしても一日の罪で三十日睦じ理が戻る。また人に物を施しても惜しむ心では戻る。また恩をきせる心でも戻る、恩をきて恩を忘れても戻る。また人に褒められて人を見下げる心有っても戻る。この戻る所の理を外さぬ様に心を定めて暮らす所を一ツの功をも見にやならんという事なり。

 

 十ド  このたびみえました  あふぎのうかがいこれふしぎ

 

という理は十どとは十分というは十柱の神様の事をいうなり。扇は大気の事なり。大気な事を誠一ツの心で大きな事をおうぎで諭し貰う事をいうなり