一ツ ひとがなにごとゆおふうとも かみがみているきをしずめ
とう理は、何事いうを聞こうと必ず天理の心を外さぬ様に心を第一に納めているのが誠やで。
神が見ているというのは、世上世界を眺めて見よ。誠は誠だけ 嘘は嘘だけ、悪は悪だけ、慾は慾だけ
その人の心通りに理が有る。親々の眼にたしか見得て有る程に親の眼に見落としは善悪共に有ると思うなこの理を以て見ている気を静めというなり。
二ツ ふたりのこゝろをおさめいよ なにかのことおもあらハれる
という理は、ふたりの心というのは月日両親の心に又夫婦こ心を納める事なり。何かの事をいうは何に就いても萬の事を皆現るというのはその筈の事。何程汚れたものでも水で洗えばその元の正体が速やか分かるであろう。人間も心を水で現れるとは、月様は国常立命様なりこの神様はその国の親神なり、国見定めの命様なり、水の神様なり。それ故国所を見定めての故、現れるのは理の当然なり。この理によって何かの事も現れるというなり。
三ツ みなみていよそばなもの かみのすることなすことを
皆見ていよ側な者というのは、近所隣の人ばかりでない世界中の事なり。世界中は側なというのは双方くるめての事を側というなり。神のする事成す事をいうのはどういう事なら何事によらず思案して見よ。物を作るにも眼に見ゑんのに生でる、のびる、花が咲く、実が実る実が入る、赤らむ、又人間もどうせこうせでも生けるというの宿る、産み卸す、生育するのも同じ事又、どうせでも悩むのも
死ぬるのも人間心では行こまい又世界も同事どうせこうせでも寒なる暑なる風が吹く雨が降る夜昼るの分かち有るのも皆人間の事ではなし。これらの事を見ていよ側な者神のする事成す事をというり。
四ツ よるひるどんちやんつとめする そばもやかましうたてかろ
という理は、夜昼というのは月日の事なり。夜でも昼でも身の悩には勤めする又。作るにも虫には虫祓いの勤、生出の勤、実のりの勤も悪難除も皆疱痘せん様の勤もこれみなそれぞれの理が有、その理を知らぬ者はやかましう、うたてからう、人の笑は神が楽しむ萬勤めの通り守護をするという事り。
五ツ いつもたすけがせくからに はやくよふきになりてこい
という理は、陽気というはどういう事なら堪能心を知ることなり。堪能の心知るには足る事を知るなり。足る事を知るには只身の内は借物を知るなり。身の内の借物を知れば何程大きな身代でも皆借物又何程上の者でも見るに見られん難渋な者でも同じ兄弟実に兄弟なれば捨てて置く事が出来まい。可哀想な気の毒やと思う心丈でも月日は厚く受け取るとの御言葉只この心を定めて日々暮らす理が第一この心を早く定めてよりその儘直に早く助けたいとの事なり。
六ツ むらかたはやくにたすけたい なれどこゝろがわからいで
という理は、村方というのは一に地場の村方の事なり。この親神様を可笑しと思っている故に同じ人間の様に思っている故それだけの理がない事なり。また二ツには世界中の村々の方もその通り疑い心が有る故に自由自在の理がない。また三ツには皆銘々身の内も同じ事、心は揃わぬ故に夫婦でも親子でも兄弟でも皆銘々の心違うでその心通りの守護有る故に皆それぞれに理が違うというなり。また助かる者と助からん者と仕合わせの善き者と悪しき者皆心通りの守護に寄せ者この理は皆心分からん故分かる故この二ツの理なり。
七ツ なにかよろづのたすけやい むねのうちよりしやんせよ
という理は、何助けではない互い/\の助け合いは、人のない物を与へるも助け、人の出来ぬ事をしてやるもの助け、人の難をわが身に引き受けて誠を尽くすのも助け、またわが身の為を思わず人や世界のためを思うのも助け、皆この世は陰陽なり、持つ凭れという心を第一に胸の内より思案せよというなり。
八ツ やまひのすうきりねハぬける こゝろはだん/\いさみくる
という理は、互い助け合いの心を第一と定めておれば身の悩みなし不時災難もなし、また何事でも自由自在も皆適う事を心は段々勇み来るというなり。
九ツ こゝはこのよのごくらくや わしもはや/\゛まいりたい
という理は、ここはといのはこの所の心の定めが、ここはこの世のというはこれはこの世の理なり
世界なり心を第一定める事を早々参りたいというなり。
十ど このたびむねのうち すみきりましたがありがたい
という理は、この教えを聞かしてもろうて、心を澄ましたゆえ、胸の内の掃除がすきやかでけて、何事もありがたいという事なり。
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