八下り目

一ツ  ひろいしかいやくになかに  いしもたちきもないかいな

 

という理は、広い世界に人間は悪気の中からこの誠一つに心を定める者はあろうまい、という事をいうてあり、その悪気の中から神の守護で誠の種を引き出す先を見ていよ、世界の中からどんな誠が出るとも知れんという事をいうなり。

 

二ツ  ふしぎなふしんをするなれど  たれにたのみはかけんでな

 

という理は、このふしぎいうは物の節の事をいうなり、皆何事も節が有て、誠心の理を定めるまた、理を定めるに、話を聞く聞くに応じて道が分かる。道が分かれば心が誠一つに定まるその心を石という。その心でいつ迄もどこ迄もふんばる者には人は敬う。これを立木というこの種はどこから出すと思うかな、この世始めた親が出すどうして出すというならば病む程つらい事は有るまい、それを話一条で心を直す者がある。これを一つの種となる事をいうなり。

 

三ツ  みなだんだんとせかいから  よりきたことならでけてくる

 

という理は、皆世界から病む事のつらさを節として寄り来る人に話しを聞かして助けをさす事の助かるという節でさんげして、また心を切り継ぎするという心が段々にでける事をいうて有なり。

 

四ツ  よくのこころをうちわすれ  とくとこころをさだめかけ

 

という理は、欲は神の残念なものなり。この欲にも色々の道が有る。金銀や山林田地望むばかりではなし、皆銘々に思案して見よ。人間は息も身体も神の借物。借物ならわが身の物は我が心より外になし。人間は日々に食う事と着る事さい与えて貰えば十分の結構とたんのうして暮らすのが理なり。

それを知らずして皆人間は何よらず欲というのは腹を立てるのも心のちいさいのも、人の事いうのも

日々に心の変わるのも、隔てするのも、追従いうも人事笑うのも骨を惜しむのも、親不孝も兄弟に愛嬌薄いもの人を捨てるもの、皆これ思案して見よ。元は欲しい、惜しいの種の一つより生える物なり。その心を速やかに切り継ぎをして誠一つに定めるようという事なり。

 

五ツ  いつまでみあわせゐたるとも  うちからするのやないほどに

 

という理は、いつまでの心というは人間心で先の思案は何つに成りてもいらぬもの、何時迄も皆神の守護なり。人間の心を定めつける事は第一の物種なり。人間は何事にても皆月日両神の諭しにかまれる心が第一の物種、この理を思案して見よ、人間の身体は月日の借物、ぬくみ水気は月日出入り、身の内自由様は月日の働きならば、世界も皆月日の守護。立毛も花咲くも実りもわく虫もこれ皆月日自由様のなり。人間も誠一つで月日の心に適うものなら身の内は申すに及ばす世界中は自由様人間の心ではできぬ事をいうなり。

 

六ツ  むしょうやたらにせきこむな  むねのうちよいりしあんせよ

 

という理は、神の信心をするにむしょうに慌て込まんようの言葉なり。只神を信ずるにも結構や有難い思うばかりで、何もならぬ。またこの道を得と思案をして話を聞いて、その理をかたく定める者なら。これは皆何事でも世界中は理でせめたものなり、その元の理はどういう理なら皆誠一つが天の理人間の理世界の理、何事も急に騒ぎもせずして誠一つの道にまた幾重も道もあり。この道の次第の元を段々と元々の話を聞いて定めよという事なり。

 

七ツ  なにかこころがすんだなら  はやくふしんにとりかかれ

 

という理は、これは道理の理を聞き道を聞き元を尋ねて分かりた上は早く胸の掃除をするのは第一なり。物が分かりて胸と口と心とが違うては第一の神の残念なり、その心を銘々に入れ替えて神にもたれる心を思案せよいう事なり。

 

八ツ  やまのなかへといりこんで  いしもたちきもみておいた

 

という理は、やまというのはこの神の事知らん世界並みの人を山というなり。その中に石も立木も有るというのは、誰でもわが身の身体を惜しまぬ者はない。それでこの神に願いを掛ける神の理を聞くに応じて懺悔ができる、心が定まる。その定めた心の真実を石も立木も見ておいたという事なり。

 

九ツ  このききらうかあのいしと  おもえどかみのむねしだい

 

という理は、人間は心次第で神の用向きに使うという言葉。また石もこの世の助け道の根石にという事。これ皆銘々の心次第。この木というても切られるにも切れようか、有悪気強欲もまたこの神の道をつぶそうと思う心はこれ皆悪の大木なり。この者は誠心の者には蔭をする心に当たるが故に、これは切り倒すとの言葉が有るそれというのは月日退くという事なり、また石も同じ事何ぼいうてもしぶとい、さんげいせぬ者は誠付ける道の妨げになるから、月日退くとい事なり。

 

 十ド  このたびいちれつに  すみきりましたがむねのうち

 

とう/\゛という事は十分という心なり。十分澄みきって見れば何事も十分の自由様が世界で成就、また身の内も十分の自由様がかなうそれを有難いと思う心を胸の内に定まるという事なり。